サギ とりとの出会い

 



 私自身が鳥を見だしたのは、大学を卒業し千葉県館山市に赴任したことがきっかけだった。

 1978年、この頃の日本は高度成長期で、千葉県では大巌寺のカワウコロニーが消滅、埼玉では野田の鷺山も消滅し、まとまったサギのコロニーは関東近郊にはない状況でした。(1970年代は最も都市の自然が荒れていた時代。農村からも、農薬や様々な要因で水辺の大きめの鳥があちこちから姿を消していた。)

 そんなころ、館山内湾には、巻き網漁で捕らえられたイワシの貯蓄生け簀がたくさん設置されていました。当時、イワシは養殖魚の餌用やカツオ等の撒き餌として利用されていた。生け簀では弱ったイワシが水面近くに浮いてきて、それにダイサギやコサギ・ゴイサギ・カモメ類がたくさん集まっていた。漁民も、ほっておくと網の表面にかなりの量のイワシの死体が浮くのを鳥が掃除をしてくれている。イワシの群を見つけるのも鳥の助けがあってのことと、寛容な姿勢でした。

 そんな生け簀から1kmほど南に城山(館山城址)があり、そこにはシイ、タブの常緑樹が茂り、周りはダンチクやヤダケが密な群落があり、人家近くにもかかわらず、人には非常に侵入しにくい場所となっている。そこに少なくとも5000羽を越えるサギのコロニーができていた。種組成は多い順にコサギ・ゴイサギ・ダイサギで、生け簀にはほとんど行かず水田で採食するチュウサギ・アマサギがごくわずか混ざり、アオサギは当時ほとんどいなかった。

 コロニーが大型化するに従い隣接する民家から、異臭とハエなどの不快害虫の大量発生に苦情が寄せられ、対策が市に求められた。銃による50羽の有害鳥獣駆除の許可が下りた。それに対し、先に書いたようにこの頃水辺の白い鳥は全体として非常に数を減らしていることもあり、このコロニーはこの時期の日本としては貴重だということで、保護運動が巻き起こった。野鳥の会千葉支部、本部、鳥類保護連盟などの協力をえて監視活動の中で、銃による駆除の取りやめを求めたが、「鳥か人間の生活」かという対立の構図になり、必ずしも効果を上げたとは言えない状況でした。

 「サギの増加原因はイワシの生け簀」ということから、当初寛容だった漁協も、サギの食害に対する補償という形で、「漁協も被害者」と、駆除を求める方向に変わった。私たちの科学的な個体数調査は、駆除数の増加の根拠としてのみ使われる結果となりました。

 その頃、あまり表面に出てこなかった有害鳥獣駆除の問題を明らかにさせたこと、その認可の問題に関しても影響を与えたように思える。私自身はその保護を巡っての議論を多くの方とすることになり、より深く野鳥の生活を観察するようになった。

 追い出し作戦の結果、分散したコロニーは、集まり始めるとすぐに地元の自治会等の追い出し作戦などで「モグラたたき」状態になりました。その後80年後半から次第にイワシ自体の漁獲がへりイワシ生け簀が減りコロニー自体が成立しなくなっていった。
現在、城山公園のコロニー跡地は遊歩道が設置され、公園と城型の博物館が作られ、コロニーができる条件もなくなってしまいました。館山湾には、「シラサギ」の姿はほとんどいなくなり、以前はいなかったアオサギとカワウがほとんどになった。漁民も漁業不振と高齢化で、やはり絶滅危惧の存在になってしまいました。

 その頃のスローガン
Today birds Tomorrow men.鳥も人間も・・・鳥(自然)を守ることは人を守る事につながる。


Smew